ヤクルトスワローズから巨人、そして阪神へ
故・野村克也監督の下、広澤さんは徹底的な「ID野球」を叩き込まれます。 (ちなみに、ID野球とは、Important Dataという造語で、当時の流行語となりました。) ID野球。すなわち、データを重視する野球のこと。
広澤さんは、1年早い入団の「池山隆寛氏」と共に【HI砲】(H=広沢、I=池山)と呼ばれるヤクルトの主軸を成し、野村監督から「状況に応じたバッティング」や「三振しないバッティング」など、今の広澤さんのバッティング理論の基本となる部分を教え込まれました。
広澤さんの話によると、当時の野村監督からは随分と可愛がってもらったとか。 野村監督との師弟関係から、広澤さんの頭と体に、確固たる彼自身のバッティング理論が形成されて行きます。
ヤクルトでリーグ優勝。日本シリーズ優勝に貢献。1995年にFAで巨人に入団。そこで長嶋監督の下、また日本一を経験。
その後2000年に、恩師である野村監督が率いる阪神タイガースに移籍。そこでもまた日本一に貢献します。 所属したすべての球団で優勝を経験したのは、広澤さんただ一人。まさに「日本一」になるのが似合う野球人なんです!
一流の野球人たちに愛された「広澤克実」のバッティング理論
プロ野球選手としての現役生活を引退したのは2003年でした。この年の日本シリーズの第7戦。9回2アウトで代打で打席に立った広澤さん。これが野球人生最後のバッターボックスでした。
そして、その最後の打席で彼は本塁打を放ちます!日本シリーズ歴代最年長のホームランとなりました!(当時41歳6か月)
19年の現役生活。退場処分を受けたことは一度もありませんでした。 彼が出会ってきた野球人たちが「一流」だったから、そしてその「一流の野球人たち」に彼がとても愛される人間性を持っていたから、広澤さんは野球人として超一流となり、そのバッティング理論は野球界で確かな存在感を放つようになります。
ボールパークドットコムの社長は、広澤さんの明大野球部時代の後輩にあたります。 社長は、広澤さんの「バッティング理論」に酔心し、これをぜひ少年たちに教えたいと思い立ち広澤さんに相談を持ちかけられました。
快諾された広澤さんは、全国で定期的に自ら主催している少年野球教室を宮崎で開催してくれたんです!
恐るべし「明大野球部」ネットワーク!! 限りなく太く、深く、そして長い!
この時私は初めて、直に広澤さんとお話させて頂きました。その印象は、、
体はとても大きく、声も大きい!とにかく、何もかもが大きい!!
少年たちに熱心に指導される姿は、父兄の方々に強い印象を与えました。みなさん「あの一流選手の広澤さんが、息子に直接指導してくれるなんて!」と大感激でした。
そして、大変好評だった「ビデオプライベートレッスン」のイベント。 広澤さん自ら、少年たちが送ってきた「自身のバッティング練習」のビデオを一つずつ細かくチェックして、少年一人一人に個人的な指導とアドバイスを送るという内容でした。
この「ビデオプライベートレッスン」の録画風景を、私は幸運にも生で拝聴。 これぞ「広澤克実のバッティング理論」!! 感動のあまり、鳥肌が立ちっぱなしでした!!!
この時の指導内容、少年たちの弱点の克服法、そして的確なアドバイス。これらをこの「ウェブマガジン」に詳しく掲載しております。 ここに広澤さんの「バッティング理論」の大事な部分が集約されておりますので、興味のある方は、ぜひそちらをご覧ください。